みどりの中に光る絹の町川俣

河俣城跡(城ノ倉)

印刷用ページを表示する掲載日:2012年3月29日更新

※「俣、股、又」字、「川、河」字についての扱いは、該当地が文献上に初見された時の用字

所在地:福島県伊達郡川俣町飯坂字城ノ倉

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河俣白(城ノ倉)遠景、川俣高校裏の高所が主郭部の写真

川俣高等学校のある山塊が河俣城で、壁沢川が城域を囲むように東へ曲流し広瀬川に合流している。往時の壁沢川は五安(後庵)舘の北東を流れていたが、寛永年間の洪水によって五安と西光寺の間が崩れたと伝えられている。この二つの河川と谷を利用して設けた切通し(現町道頭陀寺線)で区画された区域が城域をなし、山上の詰の城と山麓の根小屋および五安舘が一連の機能を持っていたのであろう。城下を通る相馬、三春街道は伊達氏と相馬氏、田村氏の本拠地に通じる要路で、きわめて要衝の地に位置している。

南北朝の抗争期に河俣城によった武将は明らかではないが、初め北党に与し延元元年(1337年)、相馬胤平によって攻略され南党の拠点となった。貞和2年(1346年)、南党の結城、南部氏らが北党に転ずると、北党勢は南党の拠点に総攻撃をかけ、河俣城は同年7月25日、畠山国氏勢によって攻め落された。

時は下り室町幕府と関東公方(関東府)との対立が激化する中で、応永20年(1413年)、伊達持宗は伊達の国人勢力を集め、大仏城(現福島市)を中心に関東方に反旗をひるがえし鎮圧されている。当時の幕府方の陸奥国諸将の中に河俣氏(正長元年-1428年)、川俣飛弾入道(永享10年-1438年)の名がみえる。川俣を領有し河俣城に居した武将であろう。持宗の乱後伊達氏は一時衰徴し、河俣城は岩瀬領主二階堂盛興によって攻取られ草野氏が河俣城に居城した。一方旧領地の回復を狙う伊達成宗は、桜田久綱に命じて河俣城を攻めさせ応仁2年(1468年)正月に攻略する。翌文明元年正月19日、再度草野氏に占拠されるが、久綱は奥山大蔵の加勢を得て28日に奪還した。この戦功により久綱は川俣四郷の地を賜り伊達家宿老に列せられ、以来桜田氏は河俣城を居城とした。天文16年(1547年)、親茂が天文の乱中に戦死すると庶家の西桜田氏が居城するが、永禄11年(1568年)、総領家の吉親(後の資親)は輪王寺に相馬氏と戦い、その戦功によって川俣の旧領地を復した。

河俣城の縄張りは、主郭は標高290mの地点から上部を空堀と通路で囲んだ山上囲郭形式で、連郭式を基本にした郭配置がある。平時の居館の根小屋は諏訪神社周囲と考えられ、郭配置と土塁、空堀の痕跡が認められる。頭陀寺は敵を狭撃する外郭の役割を果たし、計画的に配置されていたのであろう。河俣城は約250年間川俣の地を守り続け、川俣の中世史のほとんどを秘めている。


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