みどりの中に光る絹の町川俣

双六山火葬墓

印刷用ページを表示する掲載日:2012年3月29日更新

所在地:福島県伊達郡川俣町大字東福沢字双六山6番地

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双六山1号遺構の写真

通称地震山の山塊から東方に派生した尾根が、田代川の形成した平地部に張出している。この尾根上に本遺跡があり、昭和52年6月、桑園造成中に発見された。尾根上の1号墓と南斜面の2号墓の存在は、「平地と川を臨む南面する高燥な荒蕪の地が古代墳墓の普遍的な占地」に合致している。

1号墓は深さ0.5mの摺鉢状ピットから、口縁部を故意に破壊された灰袖陶器(長頸瓶)の骨蔵器と鉄釘2本が出土し、骨蔵器を河原石で囲んだ外部施設を持っている。2号墓は削土された遺構は明らかでないが、底部を穿孔した須恵器破片、墨書のある内黒土師器杯破片、鉄釘1本が出土した。この他に薬壺型須恵器破片と内黒土師器杯破片が採集されている。

口縁部を故意に破壊された長頸瓶と底部を穿孔された須恵器は、古代火葬墓に埋置する骨蔵器に日常什器を転用する典型的な好例である。薬壺型須恵器破片も大きさから骨蔵器と想像され、2基以上の火葬墓が造営されたものとみられる。火葬墓の造営された時期は、内黒土師器杯の製法と灰袖陶器の類例である愛知県猿投窯出土の長頸瓶からみて、9世紀後半が想定される。

火葬墓は前代の高塚古墳の造営が終えんし、仏教思想の火葬の風を採用したものであるが、古墳の造営数にくらべて極端に少なくなる。このことは火葬墓の被葬者が前代の古墳の被葬者と異なり、特定の有力豪族者に限られたからであろう。藤沢一夫は「火葬墓の被葬者は、氏寺(私寺)を建立したような地方在住の普代氏族、郡衙の官人、ないしは里郷の長となったような階級に、仏教思想による火葬が流布していたことが認められる。火葬墳墓の流布の姿は、充実した律令制度の反映であったとみられている。」と述べている。

川俣に前代の古墳が確認されていない現実と、充実した律令制度の反映による双六山火葬墓の存在は、8世紀後半頃から9世紀にかけて、急速に開拓が進展し充実したと想像される川俣の姿を示唆しているといえるであろう。


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