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川俣町の山~布引山・昔からの言い伝え・伝説・行事

印刷用ページを表示する掲載日:2023年10月23日更新

倉ヶ作には、享保年間に建てた風神、雷神宮の碑がある。(川俣史談:高橋良)
鳴神講とは、信仰の象徴となる祠堂も特定の場所もなく、ナリカミ様は集落住民の心の中にだけ存在している。
小島小ヶ坂の鳴神講は、毎年2月6日に行われている。

雷神社

祭礼日は、旧暦3月15日

鳴神堂御湯立御託宣

旧暦3月14日夜、倉ヶ作集落各戸から世話人宅に若者が集まり15日の役割を決める。神主(春日神社宮司)係1名、法印(本町萬法院)係1名、ノリワラ係1名、ノリワラ託宣書記2名、湯立釜係2名、その他を決める。若者達は、その場で注連縄を作る。御護符に用いる赤飯は当日世話人宅で炊く。
3月15日朝9時から鳴神堂にのぼる。鍬、山刀、スコップ、机釜(直径2尺5寸位 のもの)バケツ、むしろをもって登る。かまど形に土を掘り芝クレをつんで釜をすえる。四角に竹を立て注連を張る。一番近い清水から水を汲んでわかす。11時頃湯がわくので鈴竹の笹を60本くらい用意して清める。午後になると神主、法印、ノリワラ、倉作集落の氏子、飯坂壁沢集落、小島古河坂集落、小神の信者が集まり着席、神主の祝詞あり湯立ての行事が行われる。次に法印の祈祷があり、集落から選ばれたノリワラを集落の者が、ツイタ、ツイタ、月山、羽山、の権現ツイタとはやせば、弊束をもったノリワラは直ちに神がかりになりその年の作柄について御託宣がはじまる。
赤飯の御護符と雷神のお礼と御託宣を記した紙を受け取って下山するのである。

海老が作の延命神(伝説)

八幡太郎義家が北方の戦いに敗れ、倉ヶ作の山道を抜け海老が作に差し掛かった時、1本の大きなケヤキの下で馬を止め、しばしの憩いをとりました。綿のごとく疲れ果てた義家はついうとうとと、いつしか深い眠りにおちいりました。すると、間もなく目の前に白髪の老人が現れ「これより先の神社の所に大きな杉の木がある。そこまで落ち延びれば大丈夫。」と告げました。義家は、はっとして目を覚ますと、そこにはもう白髪の老人の姿は見えませんでした。神のお告げかも知れぬと部下を元気付け、海老が作を出発した時はすでに日はとっぷりと暮れていました。折りから空からは白いものが降り始め寒さがますます厳しくなってきました。やっとのことでたどり着いた義家は、明けて翌日ようやく追いついた敵に囲まれ、絶体絶命の苦しい立場に立たされました。しかし何と思ったか敵は戦わずして兵を引き始めました。神社の周囲の杉の大木が折りからの雪で、源氏の大軍の白旗に見えたからでした。こうして義家らは危うく難を逃れました。この時義家は休んだ大ケヤキの下に馬の大事な金の鞍を忘れてきたのを思い出しました。急いでとって返しましたが鞍はありませんでした。義家は命を救ってくれたその場所に、小さな社を建て、延命神を名付けました。
延命神の祭礼は毎年9月の9日で、この神に仕える集落の人たちはウナギを食ってはならない掟があり、もしこれを破ればたちまちマムシに噛み付かれるといいます。それだからこの所は昔からマムシが沢山いる所として有名でした。

キクザキイチゲ

キクザキイチゲの写真

春日神社

布引山の南側山麓には町の指定有形文化財である「春日神社」が位置している。これは、嘉祥3年(850年)に伊達家の祖である山蔭中納言郷により、奈良の春日大社からこの地に勧請されたと伝えられる。本殿と拝殿、御供殿(長床)があり、それらの南側には、御神木である2本の大ケヤキがある。拝殿は元文5年(1740年)、長床は寛政8年(1796年)に建造されたものである。
現在の秋季祭礼は10月14日に近い土曜日から3日間である。
春日神社の社を「楓山」と言い、布引山と楓山を総称して「匿搦山」(ノノメキヤマ)と言っていたそうである。「ノノメキ」とは、カラメカクレルと言うような意味がある。
現在の春日神社の祀官は41代目にあたる。創建当時から江戸末期までの遠藤祀官の墓地は、宮ノ入からテレビ塔に行く途中の雑木林の中(字宮ノ入34の2)にある。

町指定の文化財「春日神社」

春日神社の写真


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