みどりの中に光る絹の町川俣
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川俣代官所跡

印刷用ページを表示する掲載日:2012年3月29日更新

所在地:福島県伊達郡川俣町字寺久保77番地の2

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川俣代官所跡の碑の写真

川俣を中心とする小手郷は寛文4年(1664年)、70余年に及ぶ米沢上杉藩の支配を離れ幕領となり代官支配のもとに入った。次いで元禄16年(1703年)、町小綱木村中町松風山東円寺の隣地に川俣陣屋が設置された。川俣は古来交通、政治上の重要な位置を占めていたが、江戸期に入り絹織物生産の隆盛とともに幕府にとっての重要な財源ともみなされ、陣屋設置に至ったものと考えられる。陣屋跡は昭和47年に廃止されるまで県繊維工業試験場が設置されていた。

川俣の代官支配は戊辰戦争により慶應4年(1866年)7月、官軍の三春方面からの攻撃による大綱木境木口守兵の撤退、代官所役人の米沢への落延びにより、166年間をもって終末をみるにいたった。その間4人の予り代官を加え40人の代官に支配を受けていた。10年以上の代官3人を除くと平均4年の短期間であった。代官は年貢微収官としての性格が優先し藩政治と異なる所があった。役人の貢租の増微政策や成績主義などから誅求が起ることも少なくなく、凶作の年、享保14年(1729年)に起った享保一揆も代官岡田庄太夫の暴政に対するものであった。このような代官支配の中で町内には、次のような石碑も立てられている。

水陸斎感應記の碑(飢饉の碑)

所在地:福島県伊達郡川俣町字寺久保 東円寺境内

文化12年(1815年)、凶作の兆が現われると下役人河野猛寛が天明の餓死者の冥福を祈り、寺院を集め水陸斎(施餓鬼)を行ない災厄を免がれたという。これを記念して建てられたものである。

東円寺 水陸斉感應記の碑の写真

寺西代官の碑

所在地:福島県伊達郡川俣町飯坂字頭陀寺 頭陀寺境内

文化13年(1816年)、小手郷内5ヵ村がかの名代官寺西重次郎の予り所となった。これによってか後世頭陀寺住職の手により境内に彼の碑が建てられている。

頭蛇寺 寺西代官の碑の写真

天下泰平の碑

所在地:福島県伊達郡川俣町字仁井町 八坂神社境内

文政8年(1825年)、凶作、多くの農民が飢餓に苦しむのをみかねて、下役人多久官蔵は窮民に粟を給与しその難を救ったという。その功績を刻した碑である。

八坂神社 天下泰平の碑の写真


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