みどりの中に光る絹の町川俣
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義民 粂八・元蔵・久四郎の墓碑

印刷用ページを表示する掲載日:2012年3月29日更新

所在地

松沢村 粂八

慶応2年の信達大騒動の首謀者金原田村の八郎と共に、幕末の混乱期に活躍した氏家粂八は、松沢村字雁ヶ作の出身である。剛腹にして義侠心に富んだ粂八は、若くして村役人を勤め、常に農民の側に立って代官所役人と対立し、投獄されることも多かったという。

信達騒動直後の慶応2年8月11日付の「日本廻文之事」と記された粂八の戦争反対(徳川幕府の長州征伐反対を意味する)の全国藩主に宛た廻状は、彼の憂国の熱情あふれる激文として、面目躍如たるものがある。

その後明治4年2月川俣近傍に発生した明治新政府反対の騒擾事件に捕えられ、福島の牢舎につながれたが、事件落着と共に許され帰宅の身となった。しかし粂八の出獄を恐れて一服もられ、帰宅途中青木平において絶命し、死体となって帰ったと伝えられている。

粂八の墓は、実家の西方裏山続き大久保村境の峯に一族の墓地と共にある。大きな黒色の墓石の正面に「高徳院良孝居士」と筆太に力強く刻まれ、裏面に「明治四年十二月二十四日当家四代目俗名粂八? 行年六十七才」としるされている。

氏家粂八 墓碑の写真

松沢村 元蔵・鶴田村 久四郎

明治維新後の世情不安に引続いて起った2年、3年の凶作と物価高は農民の生活を強度に脅かし、年貢の納入延期を願い出る状態となり、ついには夫食米借、種籾拝借歎願にまで発展した。特に川俣近辺の村々の窮状は言語に絶した。

これに対し政府は救済の手を差しのべるところか、4年1月上旬には県役人を川俣に出張させて、未進年貢の督促、しかも即刻全納を強制執行した。この無暴な役人の仕打ちに激怒した農民は、団結して対抗しついには発展して福島県庁を襲うという大事件となった。これが明治4年2月の川俣近傍騒擾事件といわれている。この事件の関係者として数多い農民が逮捕されたが、特に松沢村高橋元蔵、鶴田村高野久四郎の両名は、首謀者と目されて死罪に処せられている。

高橋元蔵の墓は、鶴沢字西ノ内(通称昭和公園西手)の旧墓地にあり、碑文は下記の通りである。

「明治四未十二月十九日
南無妙法蓮華経苦元?要慎
君カ代ハ昔しも今も
かわらねどかヽる
さいごハ浮世なるらん
高橋元蔵」

辞世の和歌が刻まれ、高さ76cm程の白味勝ちの石である。

高橋元蔵 墓碑の写真

高野久四郎の墓は、鶴沢字大原の実家の向い柿ノ窪墓地にあり、碑の表面中央に「讃?得歎清信士」の法名とその右側に「明治四辛未十二月十九日」と刻まれている。

高野久四郎 墓碑の写真


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