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中島の石塔婆(建武の碑)

印刷用ページを表示する掲載日:2012年3月29日更新

町指定史跡 中島の石塔婆(建武の碑) (なかじまのせきとうば(けんむのひ))

所在地:福島県伊達郡川俣町字中島14番地

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中島の石塔婆の写真

中島の碑として「小手風土記」や「信達一統誌」に記載されている石塔婆は、死者の冥福を願うために建てられた石造の卒塔婆で、石造供養塔婆、板石塔婆、板碑ともいわれ鎌倉から室町時代にかけて数多く造建された。普通は板状の石面上部に仏を表徴する種子、その下方に紀年銘、趣旨、願文、造立者名などが刻まれている。中島の石塔婆はもと谷沢川と広瀬川の合流する河畔にあったもので、「建武の碑」として昔から著名なものであった。建武銘の石塔は仏種子を失なっているが、痕跡から阿弥陀如来の種子とみられる。中央に「建武元甲戍十一、五日、仙海」(1334年)と、「年」と「月」との字が省略されて年、月、日、が刻まれている。仙海は掛田の修験といわれ彼の建てた石塔婆は他にもあるといわれている。

左側の石塔は同じく自然石の面に大きな阿弥陀仏の種子があり、その下に「嘉暦二年丁卯五月廿六日」(1327年)と刻まれている。鎌倉末から南北朝時代にかけての当地方は世情不安、戦乱が打ち続いた時代で、延元2年(1337年)北畠顕家は多賀城から霊山に移り、その年10月、霊山を発して西上し和泉堺および石津に戦い戦死している。延元3年には河俣城(城ノ倉)、霊山を中心として南北両党の攻防戦が激しく行なわれた。 板碑は関東に多く東北地方にも多数分布しているが、川俣でも中世の板碑はこの他大綱木字高屋敷常楽寺跡薬師堂の嘉元2年(1304年)の2基の他20基の存在が認められている。これらの板碑は中世の川俣地方の歴史、文化史上貴重なものである。


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