花塚山は阿武隈山系の北部に位置し、霊峰としてそびえています。晴れた日には東に太平洋が望洋でき、西には緑の中に光る絹の町並みから、遠望に吾妻連峰と安達太良連峰が一望でき、南には口太山、麓山、日山、大滝根山が望め、360゜の展望パノラマが見れる大変すばらしいところで、古くから信仰の霊峰として、町民に親しまれてきた、町のシンボルの山です。
探勝路は、峠の森自然公園(第二次林業構造改善事業)と花塚の里(ちびっこ広場)と花塚山頂、花塚台を有機的に結合させた延長7,200mの歩道です。
急な坂道には、木の階段、川(ほり)には木橋、見晴らしの良い所には高床式の展望台・ベンチを設置しました。また危険な場所には、手すりを設け、安全を確保するとともに、道案内として3ヶ所に大案内所と、別れ道には小案内板を設置し、利用者の便を図りました。
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山形県にある湯殿山は、昔(1700年頃・元禄13年)国中の遠近の信者が仏法を修業し、年々参詣に来てにぎやかになり、繁盛する御山になってきたということです。ただし、遠路で行き帰りの道のりが、17日もかかり、そこで春日山神宮寺天台宗の法印忠海という人が、貧しい暮らしの者は行くにも金がないのを哀れみ、この花塚山を湯殿山の御神体大日如来の山にと江戸の本山へ推挙され、本山より花塚山大権現として名付けられました。
それが高じて、花塚山には多くの人々が参詣し繁盛するようになったので、1709年(宝永6年)に法印忠海はこの旨を江戸の本山へお届けになって、御宮様(本山の指導者)は、法印忠海を別当(仏語僧官の1つで1山の寺務を総裁する者)として命じられました。
このようなことから法印忠海を中興開山と称するようになり、花塚山の御神威はますます繁栄した。1769年(明和6年)の年には、参詣する群衆が非常に多かったので、当時の別当法印秀純は、より繁栄するようにと本山へ届出て、同山より重ねて湯殿山と御同体の御神であると唱えなさいと仰せられ、それにより、ますます神の御威光が明らかに光り輝いたということです。
これらのことにより、いうまでもなく当山へ一度参詣すれば、重罪も消滅し、どんな身分の高い人も低い人も同山では、皆平等であり、それが神の御誓願であるという言いつたえが、残っている山です。
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