戦国時代の川俣は伊達氏南端の領地で、勇猛を誇る桜田右兵衛尉資親が河股城に居していた。東は相馬氏、南は岩代の大内氏と領界を接し絶えず戦乱が続いていた。このような背景のもとに、天正12年(1584年)、河股城が構築されたと伝えられる。
本丸を中心に主郭と西郭、北郭、南郭により構成される複郭山城で、急峻な自然地形を利用した縄張りにより地形によって曲輪の配置が変化している。総じて東部は急傾斜面の防御正面で、西部は平坦地を抱えた家臣団家敷の置かれた搦手であり、山続きの南方が退路に当る。広瀬川と田代川を天然の堀とし、勘左堰から導水した堀により池あるいは泥田堀を配し、堅固な防御線が確立されている。東西1,300メートル、南北1,200メートルに及ぶ広大な城域である。このような巨大な城を築いたのも奥州征覇をもくろんだ伊達氏の南進の拠点として、大軍が籠城できる城を必要としたからであろう。
伊達政宗は天正13年8月、川俣に陣を取り9月に岩代の大内氏を攻略し、翌14年4月、二本松の畠山氏を滅し天正17年には会津を征して奥州のほとんどを征するに到った。しかし翌18年、秀吉の奥州仕置によって会津を含め領地の南半は没収され、その地は慶長3年(1598年)上杉景勝が領有した。同年、秀吉が没すると徳川家康と石田三成の反目が表面化し、家康側についた政宗は三成に与した上杉景勝を背後からけん制するため、同5年6月24日、白石城(宮城県)を攻めた。
同じ頃、相馬駒ヶ峯城主桜田玄蕃基親(資親の子)は伊達に侵入し、河股城を攻略し飯野、秋山、大波、小島を焼き払い大舘に陣を取ったが、24日河股城に引き籠もって戦い最後は城を空けて駒ヶ峯城に帰った。この陽動作戦は図に当たり梁川、福島の上杉勢は基親の行動に釘づけされ白石救援に赴くことができず、政宗は白石城を手中に収めることができた。河股城は政宗の度々の合戦、あるいは作戦の重要な要として機能していたといえる。基親は元和元年(1615年)、政宗の庶子秀宗の伊予宇和島入部に従って駒ヶ峯城を去っていった。
二の丸跡は憩いの場
二の丸にある碑
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